2007年12月15日土曜日

劉大人と焼卵の話

 まだ台南が台湾の首都だった昔のことです。台南に状元と云う今で云えば博士に相当する学位を持った劉如水と云う人がありました。何しろ状元と云う学位は、難しい官府の試験に合格した者でなければ授けられないので、状元の学位を有つ人々は、いずれ劣らぬ学者ばかりで、みんな立派な人達でした。劉如水もその中の一人で、人々からは劉大人と尊敬され、ある官衙の長官になっていました。

 ある日の夕方のことでした。この劉大人は一日の勤務を終わって役所を出かけた時ふと、はや長い間ご無沙汰をしている兄の家を久しぶりに訪ねようと、思い付きました。そして自分の家へは使いを出してこのことを知らしておいて、一人でぶらりと役所の門を出て、兄の家をさして歩きはじめました。劉大人は歩きながら、こうした町の様子を見るともなしに眺めて、久し振りで逢う兄のことや嫂のことを心に描き、逢うて語る時の楽しさなどを考えて、にこにこしながら一歩一歩兄の家に近付きました。兄の家はこの賑やかな町の端れでした。町を通りぬけると、そこに門があって、その側には繁った榕樹が、夕闇の中にほの黒く見えていました。劉大人はその門の内へつかつかとはいり、玄関に立って、

 『頼まう、御免』と案内を乞いました。すると、奥の方で女の応える声はしたと思うまもなく、そこには顔馴染の女中が顔を出しました。

 『おや、お分家の旦那様で。いらっしゃいまし』と、にこにこ愛嬌を見せながら丁寧に会釈すると、そのまま奥へはいってしまいました。

 劉大人は妙なことをするなと思いながら玄関に立っていると、やがてそこへ姿をあらわしたのは優しい嫂でした。

 『まあしばらくでしたね、ようこそ。さあどうぞ……』かう云いながら、自分が先にたって、劉大人を応接室へ案内しました。そいて室の入口で軽く会釈したと思うと、これもまた奥へ行ってしまいました。劉大人は仕方なしに、そこにあった一つの椅子に腰を下ろしました。やがて一人の召使いがやって来て、美しい飾燈に燈をともしました。幾ら待っても二人とも出て来ません。そのかわり、女中が入れ替わりに煙草やお茶やお菓子などを運んで来ては、卓の上に置いて、待遇してくれました。けれど兄も嫂も一向出て来る様子がありません。劉大人は所在ないままに、茶を喫んでは、煙草を吸っていました。そして紫色の煙が室の彼方にゆらゆらと流れて、末は薄く消えてゆくのを、ぼんやりと見送っていました。

 大分長いこと待たされた劉大人は、余り兄や嫂が出て来ないのがそろそろ不思議になってきました。「いや、ひょっとすると兄さんは不在なのかも知れないな。それに嫂さんは女のことだから、夕飯の仕度でもしているんだろう。これは飛んだ邪魔をしたな」劉大人はふと思いつきました。そしてうっかり訪ねて来たことを今更のように後悔しました。すると丁度その時室の外に足音がして、誰か来るらしい気色がしたので、座作を改め椅子に腰を下ろして待っていると、室の扉が静かに開いて、美しい着物に着換えお化粧までした嫂が、淑やかにはいって来ました。

 『まあ長いことお一人でお置き申してほんとにすみませんでした、失礼しましたね』嫂はこう云って、会釈しながら、劉大人と卓を挟んで椅子に腰を下ろしました。劉大人は長いこと待たされましたが、嫂からかうでられては怒るわけにもゆきません。

 『いや、私こそ飛んだ失礼をしましたね、丁度お忙しい時分お邪魔をしてしまって』と挨拶して『時に嫂さん、兄さんは?』と、訊ねました。心の優しい嫂は、折角訪ねてくれたのに不在なので、何となく気の毒でならないと云った様子で、

 『まあ、ほんとにお生憎でしたね。今日は不意に急な用が出来まして、午後から出かけたのでございますよ』と、いかにも済まないと云ったように、俯いて詫びるのでした。

 折角久し振りに訪ねて来たのに、兄が不在と聞いた劉大人は、聊か失望しましたが流石に嫂の手前、残念と云った風を見せるわけにもまいりません。

 『ああそうですか、それや残念ですな、でも、御用があれば仕方ありません。それに私も出抜けにやって来たのですからね』と云って、すぐに帰ろうとしましたが、この儘帰っては嫂の気を悪くするだろうと思って、そのまま腰を落ちつけて、暫く嫂と四方山の話を続けていました。やがて、帰ろうと座を立って、

 『じゃ、また来ましょう』と云いました。すると嫂は慌ててそれを引き止めて、

 『まあいいじゃございませんか、主人がおりませんでも』と云いました。この儘帰しては気が済まぬと云いような口ぶりでした。劉大人はそれを軽く受けて、

 『いや何です、兄さんの留守に長くお邪魔しても悪いし、それにもう夕餉時分ですからね』と腰をあげかけました。

 『まあ何をおっしゃるの、そんなご遠慮には及びませんわ。主人は留守でも私がお相手いたしますわ。それに丁度ご飯時でもございますから、何にもありませんが久し振りに召し上がって下さいな。もう仕度も出来ましたし、召上ってるうちには主人も帰るでしょうから』嫂はこう言ってしきりに止めました。「さては先刻長く待たしたのは夕餉の支度をしていたのだな」劉大人はかう気がつくと、それでも無下に帰るとも云えず、折角の志を受けずに帰るのはかえって失礼と思って、

 『いや、それじゃ何でしたね、かえってご迷惑に来たようで恐縮します。折角ですから、それじゃ遠慮なく、御馳走になることにしましょう』と帰るのを思いとどまり、嫂の好意を感謝しました。

 何事にもよく気がつく如才ない嫂は、劉大人の久し振りの来訪に、折柄の夕餉時なので、すぐさま夕餉を支度しましたから、劉大人も快く御馳走になることにして腰を落ちつけました。女中がすぐにお膳を運びました。幾つかのお皿に盛られた種々のご馳走が、女中の手で運ばれて、卓の上に美しく並べられました。それに香の高い、甘いお酒も出ました。劉大人は、これを見て、

 『やあ、これは飛んだ御迷惑で……』と云って、にこにこしながら、眼の前の卓の上に並べられる皿の数々を見廻して、いろいろお礼を言いました。嫂は御馳走が並んでしまうのを待って、

 『さあ何もありませんが一つ』と勧め、壜を手にして、『まあお一つ、私がお酌しましょう』と、盃を取らせ、なみなみとお酒を注いで、『どうぞごゆっくりご遠慮なさらずに』と云ってにっこり笑いました。劉大人はいよいよ恐縮して、盃を手にしながら、

 『嫂さんのお酌で、恐れ入ります。では遠慮なく頂戴します』と嫂に挨拶して、さも気持ちよく一口飲みました。嫂も満足して、

 『さあどうぞ、折角久し振りに入しったのに、主人が不在でほんとに残念でしたね』とこんなことを云いながら、兄に代って心からもてますのでした。

 優しい嫂の心づくしを大層有難く思った劉大人は、勧められるままに、思わず盃の数を重ねてうっとりといい機嫌になりました。並べられた皿に遠慮なく箸をつけて、下鼓を打っていました。が、その時不意にどうしたのか、

 『あつ!』と云った顔を顰めました、嫂に気づかぬようにと注意はしましたが、何事につけても敏く賢い嫂が、何でそれを見逃しましょう、この挙動を目早く見つけて、すぐ卓の上の皿をそれとなく見廻しました。ところが、いくつか並べられた皿の中に、焼卵が三つあるのが目につました。これを見た嫂も同じように、

 『あつ!』と云って苦い顔をして、急いでその皿を取り上げました。

 『まあ、どうしたと云うのでしょう、これは飛んだそそうをしてしまいましたね、ご免なさいよ』と、粗忽をしきりに詫びました。そして、このしくじりを恥じて、穴があったら入りたいとでもいったような風情でした。

 劉大人は嫂のこの様子にかえって恐縮して、

 『いや、何でもありやしませんよ、言わば私と貴女の間は、内輪も同然ですもの』と、そのまま水に流そうとしました。けれども嫂はなかなか承知しません。

 『でも貴方、こんな粗忽をしては申訳がありませんわ』と、詫びるばかりか、内輪の客とは云いながら、大切な良人の弟、その人にこんな失礼をしては、折角の心尽くしも水の泡、この儘には済まされぬと、わざとしたことかそれとも失ちか、誰の仕業か、それを確めねばならないと下女をみんな呼び寄せ、客の目の前で調べることとして、下女にみんな来いと云いつけました。

 一体台湾人の間には、昔から、妙な習慣があって、三とか五とか七とか云う奇数を大層忌み嫌うのです。殊に客を饗す時用うものは、お菓子でも、お料理の皿数でも、お皿の中の品数でもみんな奇数を嫌って、二とか四とか六とか云う偶数を用うことになっているのです。さてこそ劉大人の前に並べられた皿の中の焼卵が三つあったので、お客の劉大人はそっと苦い顔をするし、嫂は気を悩んで、しきりにお詫びを言った揚句、下女を一々調べるということになったのです。はじめ嫂が台所で盛らした時には、確かに四つあったのです。それが今見れば、どうしても三つしかありません。これは自分に何か怨恨のある者がわざとしたのか、それとも悪戯か、お客の前で赤恥を晒させようと企んだのか、または過ちに一つ失くしたか、何にしても飛んだ真似をしたもの。お客が良人の弟だから穏便にも済まされるとは云え、一家の主婦としてこんな大失態を、この儘に済ますわけにはゆかない、と嫂はこう思ったのです。こうなってくると劉大人には、また一つ厄介が多くなったわけです。けれども嫂は一生懸命ですから流石に一寸手を出し兼ねて、仕方なく、嫂のするままに任せて、傍でじっと見ていました。

 急に嫂から呼び出された下女共は、何事が起ったのかと、怪訝な思いをしながら打揃って応接間へ来ました。嫂は下女共を見て頗る不機嫌の体で、

 『さあ、こっちへお入り、みんな入るんです』と厳しく言いました。そしてみなを中に入れて、お客様、劉大人の前に列ばせました。唯ならぬ嫂の気色を見てとった下女共は、どんなお叱言が出るのかと案じておりますと、嫂はいかにも主人らしい態度で、

 『さあこれから、お前方に一つ訊かなければならぬことがあります。分家の旦那様の前で、一々正直に答えるんですよ。決して隠したり、虚偽を云ったりしてはなりません。もし隠したり、虚偽を云ったりしたことが分ったら承知しませんよ』と、一同に向って、厳かに云い渡しました。そして静かに卓の上の一皿、焼卵の三つ盛ってある皿を持ち出しました。

 『さあ、皆、これを御覧、三つしか盛ってないよ。私は確かに四つと云って置いた筈だのに、一体誰が三つにしたんです』嫂はこう云って、手近のものから一人ずつ調べはじめました。けれども、い並ぶ下女共は、互に顔を見合わせるばかりで、誰に訊ねてみてもみんな云い合わせたように、知りません、存じませんの一点張り。さあこうなると調べがなかなか難しく、容易に犯人があがりません。嫂は一層恐ろしい顔をして、声を励まし、

 『誰です、さあ正直に云わないか』と叱りつけましたが、やっぱり同じこと、みんな知りません、存じませんで、一向に調べはつきません。流石の嫂もこれには困ってしまい、いよいよ気を焦たすばかりでした。

 すると、傍で見ていた劉大人、もう黙ってもおられず、少し椅子から乗り出して、

 『嫂さん、私が一つ調べてみましょう』と云い出しました。嫂はもう困りぬいている最中、兎に角劉大人が調べれば、こんなことには馴れてもいるだろうし、女の自分などよりはいいに相違ないと思ったので、

 『まあ、貴方が調べて下さるって……』と云って、劉大人の顔を見ながら、『それがいいわ、貴方はお役人とは云え、劉大人は行懸上詮議してみようと云い出したまでで、実はどうして調べたものかと云うことさえ考えていなかったのです。さりとは余計なことを云いだしたわいと思ったものの、もうこうなっては仕方がありません、暫くはじっと考え込んだまま、思案にくれておりましたが、流石は劉大人、すぐ考えがついたものと見えて、うむそうだと一人頷きました。けれど、これもやっぱりうまくないと思ったのか、再び深い考に沈みました。すると嫂はこれを見て、

 『まあどうなすったの、何をそんなに考えてばかりいらっしゃるの。いやですわ、ねえ、貴方。貴方は立派なお役人でしょう、このくらいのこと、何でもないと思いますわ。第一このくらいの裁が出来ないで、よくお勤務が出来ますね、失礼だけど』と、意地悪く一本ちくりと針を刺しました。嫂も優しい女ながら、気が勝っているのと、婢女共の手前、殊更にこう云ったのでした。

 劉大人は暫く考えていた末、今度こそは妙案が浮かんだと見え、はたと膝を打って、

 『嫂さん、じゃ兎に角詮議してみましょう』と男らしく云って、それから婢女共に、一人一人水を入れた茶碗と空の茶碗を持って来るように言い渡しました。嫂はこれを聞いて妙なことをすると、半ば驚き半ば可笑しく、何をするかと見ておりました。その時劉大人は云いつけられた通り、二つの茶碗を持って立ち並んだ婢女共に向って、厳しい声でこう云いました。

 『今度は、私が詮議をする、だから何事も私の云う通り、従うのだ。もし従わない者があったら、それを犯人とする』

 そこで婢女共にまず茶碗の水で含嗽をさせ、その口の中の水を、空の茶碗に吐き出させました。妙な事をして詮議をするなと婢女共は内々こう思いながらも、従わないと大変ですから、云いつけられた通り、劉大人の眼の前で、まず茶碗の水で含嗽をして、その口の水を空の茶碗に吐き出しました。不思議に思ったのは婢女共ばかりではありません、嫂も変なことをして詮議をするものだと、聊か呆れた様子で、不思議そうに、この場の光景を見ておりました。

 劉大人は婢女共の吐き出した茶碗の水を、一々念入りに検べておりましたが、その中でもある一つを殊更に念を入れて検べました、そして何か見つけだしたものと見えて、我とわが胸に頷きながら、その茶碗を差出した一人の婢女の顔を見ました。するとその婢女は、はつと驚き慌てた様子で、不意に泣き崩れてしまいました。これを見た嫂はじめ他の婢女共は、この不意の出来事に驚き呆れて、思わず顔を見合わせて、いかにも怪訝そうに、その婢女の方へ視線を集めました。劉大人は茶碗の水と云い、婢女のようすと云い、正しくこの婢女の所業に相違ないと思いましたので、泣き入る婢女に向って、

 『おい、お前だろう、正直に云うがいい』と、いいました。そして今度は、思いかけぬこの場の有様に驚いている嫂に『嫂さん判りましたよ、そこでご覧なさい。今含嗽をさせて吐かしたこの水の中に、これこの通り、焼卵の滓の粒が浮いているでしょう。悪戯か故意とか、兎に角あの婢女が喰べたのでしょう、それで判ったのです。だが嫂さん、これは私がお願いするんですが、この女は何も悪気でしたのではありますまい、穏便に済まして下さい。つまり、それと判ったなら、後来を戒めて別に罰しないことにしたいのです』と、自分で裁いただけに、何とか穏便に取り計らうことにしたいと云いだしました。で、嫂もそれを承知して、

 『お前かい、正直に云うが可いよ』と、劉大人の手前優しく訊ねました。婢女は劉大人の情け深い言葉を大そう有難がり、正直に自状しました。

 その申し条はこうでした。最初碗の中には焼卵が四つ、それは嫂のいい付けた通りあったのですが、その時この婢女が不図それを見ると、いかにも美味しそうなので、ちょっと喰べてみたくなりました。幸い付近にいたほかの婢女共は忙しいので、こっちへ気をつけている者もありません。そこで婢女はそっと一つだけ無断で頂戴して喰べてしまったのです。自分では首尾よく喰べてしまったので、これで可いと思っていたところ、歯の間にその余分が滓のような小さな形で残っていたものですから、含嗽して吐き出した水の中に交っていたために、たうとう暴れてしまった始末、こうなっては今更隠しもなりません。

 『奥さまどうも相済みません、つい妾が意地汚い、焼卵がいかにも甘そうだったものでございますから、ついちょっと……』と云って、消え入りたいほど恥しく、後の言葉を濁してお詫びを言いました。

 『ほんの出来心で、飛んだことをいたしました、どうぞ御勘弁を下さいまし』

 ほんの出来心でやったことだし、劉大人からの相談もあって、穏便に取扱うことを承知しているので、嫂も強くも叱られず、

 『まあ、そうかい、困るじゃないの。今度のことは、分家の旦那様も仰有る通り、云わば内輪のことだしするから、勘弁もしましょうが、これからこんな真似をしてはなりませんよ。さあ分家の旦那様に、よくお詫びするんですよ』と嫂自身も婢女に代って劉大人に侘びをしました。そして、

 『まあ本当に、うまく思いつきでしたね、含嗽をさせて吐かした水で調べるなんて、私、つくづく感心いたしましたわ』と、劉大人の頓智のいいのをいろいろ褒めちぎりました。

 ふと浮んだ考案が、うまく的中して、まんまと調べが出来たので、劉大人もさすがに気持がよく、微笑みながら、嫂のお詫びを快く受けて、今日の出来事は気にかけず、そのままさらりと水に流してしまいました。こうして婢女の罪も許したので、一旦面倒になりかけた焼卵の問題も、何の苦もなく解決出来て、再び賑かな、睦まじい饗応の場面となりました。そして劉大人は、兄こそ帰って来ないので面会出来ませんでしたが、それでも、嫂の心尽の歓待にすっかり満足して帰って行きました。

 こうして事件があった後、何分内輪のこととてその場限りにしてあったのですが、さて人の口には戸が立てられぬと云うたとえの通り、誰の口から洩らされたものか、何時とはなしにこの劉大人の裁きが噺に上り、今は誰も劉大人の頓智に感心して褒めぬ者がないくらい、評判が高くなりました。流石は劉大人だと、それからは益々みんなからの評判がよく、人々から尊敬されることになりました。劉大人の焼卵の裁判のお話は、これで終りといたします。