2008年5月15日木曜日

生蕃と南洋のお姫様

 随分大昔のことです。南洋のある島に王様と王妃様とが住んでおられました。お二人の間には花のように美しい一人のお姫様がありました。お二人がそのお姫様をお可愛がりになることといったら、目の中へ入れても痛くないというほどでした。お姫様はこうした御両親の愛に包まれながら、すくすくと成長してゆかれましたが、大きくなるに連れて次第にその美しさは増すばかりでした。

 ところがある年のこと、この島に悪い病気が流行りだしました、そして恐ろしい勢で蔓延して、島人は毎日幾人となく、ばたりばたり死んでゆきます。島人達はすっかり脅えて、神様の加護を祈り、お医者さんというお医者さんは、みんな必死となって働きましたが、その効もなく病気は益々勢を増すばかりでした。そしてたうとう王様の御殿にまで侵入して来て、大切な大切なお姫様がその病気にとりつかれて、ばったり床についておしまいになったのです。さあ王様ご夫婦は大変なご心配です。医者よ薬よ、加持祈祷と、気も狂うばかり、寝食を忘れて介抱なさいましたが、病気は次第に重るばかりでした。今までは幸福で華やかだった御殿の中は、急に火が消えたように淋しくなり、笑い声一つさえ聞えないようになってしまいました。王様御夫婦は言うまでもなく、家臣共も交代にお姫様の枕辺につききりでご介抱申し上げると言う有様でした。いかなる名医の治療も加治祈祷も何の効もないのをごらんになった王様は、ある日のこと家来どもをみんな集めて、

 『何とかいい方法はないものだろうか。これという考えのあるものは、遠慮なく言ってくれ』と御相談なさいました。けれど家来どもはただ顔と顔を見合わすばかりで、それにお答えしようとするのは誰一人ありませんでした。この有様を見て、王様は落胆の余り、ほっと深い溜息を吐かれました。

 丁度その時、ご殿のお庭先には、ふたんから王様が大層可愛がっていらっしゃる一匹の犬が寝ておりましたが、王様のこのお声を聞くと、何と思ったのか急にわんわんと大きな声をして吠え出しました。で、これを聞いた王様は、どうしたのだろうと思いながら、ご自分で縁先に出てごらんになりました。犬はさも嬉しそうに尾を振りながら、王様のお側近くすり寄って来ました。

 『おう、お前までも姫の病気を心配してくれるのか。どうだ、お前は姫の病気を癒す法を知っていないかい。知っているなら教えてくれ。もしお前が姫の命を助けてくれたら、お前を姫の婿にしてやろう』

 思案に余っていた王様は、ついうかうかとこんなことを云われました。犬はその言葉が判るのかさも嬉しそうに尾を振りながら、頭を擡げてじっと王様の顔を見つめていましたが、王様のお言葉が終るとわんと一声高く鳴いて、何処ともなく駈け去ってしまいました。王様は不思議なことがあればあるものだと思いながら、暫くはぼんやりと犬の駈け去った後を見送っていられました。

 さて、犬は何処へ行ったものか、その後暫くの間は影も見せませんでしたが、二日ほどしたある夜中頃、御殿の門前で切りに吠え立てている犬の声を、王様がお聞きつけになりました。

 『ああ、犬が帰って来た。誰か行って早く門を開けてやれ』

 やがて犬は家来の者につれられて王様の前へやって来ました、見ると何やら口に咥えているので、家来にとらせてごらんになると、それは名も知らぬ草の根でした。で、王様は場合が場合ですし、前に犬に向って云ったこともあるので、早速その草の根を煎じて、重病のお姫様に飲ませられました。ところがこれはまたどうでしょう。今が今まで命も危ぶまれていた重病が、見る見るうちによくなって、その日のうちに全快してしまいました。王様や王妃様を始めとして、家来達は夢かとばかり喜びました。そして例の犬は可愛いお姫様の命の親だというので、その日から大切に大切に飼われることになりました。

 ところがどうしたものか、犬はどんなに可愛がってみても、ちっとも嬉しそうな様子はみせません。いつも何となくうち凋れて、恨めしそうな顔をしているのです。で、家来達は不思議に思って、この由を王様に申上げました。すると王様は事もなげに笑いながら、

 『何、どんなにしてやっても犬が喜ばぬと言うのか』とおっしゃいました。『それでは奥庭へ入れて、うまい魚の肉でもやったらいいだろう』

 家来達は早速王様のお吩咐つけ通りにしました。けれど犬は矢張り、貰ったおいしいお魚や肉などには口もつけず、何か他にほしいものがあるような顔をしておりました。その様子を見ていらっしゃったお姫様は、父王様に向いて言われました。

 『お父さま、あなたはもしお前が私の病気を癒してくれたら、私をお嫁にやると、この犬にお約束なすったそうでございますね。で、犬は私のお婿さんになろうと思って、こんなにしているのでございましょう。私もこの犬の力で危うい生命を助ったのですから、もしお父さまのお許があれば、私はあの犬の妻になってやりましょう』

 王様はこれを聞くと吃驚しておしまいになりました。

 『何を馬鹿な事を云うのじゃ。幾ら小さな島とは言いながら、それを支配している王の姫を、畜生のお嫁になどどうしてやれるものか。あの時ああ言ったのは、その場の冗談だよ。どうしたってそんな事は出来ない』けれど心の正しいお姫様は、なかなか承知なさいません。

 『いいえお父さま、それはいけないと思います。私だってすき好んで畜生のお嫁になりたいとは思いません。けれどかりにも王様のお父様が、ご自分からお約束を反古になされては、人民どもへの聞えもどうかと思います。私はもう決心をいたしました』

 お姫様は決心の色を面に表わしてこう云われました。そこで王様も仕方なく、お姫様の言葉通りにすることになさいました。そして犬に向って、

 『これ、お前も定めし聞いたであろう、姫の殊勝の志にめでて、お前の妻にやることにする。畜生とは云いながら、お前は姫にとって命の親、どうか末長く仲良く暮してくれ。さあ、これでお前も満足しただろう。何とか沙汰をするまで外へ出て持っておれ』とおっしゃいました。犬はさも嬉しそうにいそいそとして表の方へ出て行きました。

 傍にいてさっきからの様子を見ていらっしゃったお姫様は、犬の姿が見えなくなると一緒に、そのままそこへ泣き沈んでおしまいになりました。その時お姫様は父王様に向って、またこんなことをおっしゃいました。

 『あの父上、私が畜生のお嫁になったということが、もし世間に知れましたら、それこそお父様達の恥ばかりではなく、先祖に対しても誠に申し訳ないこと、ひいては島中の騒動になるかも知れません。で、どうか私共に船を一艘頂かせて下さいまし。私共はそれに乗って、どこか遠い島へでも行って、そこで暮したいと存じます』

 可愛くてたまらないお姫様を、このまま手放してしまうということは、王様や王妃様にとって、身を切られるように悲しい事でした。けれどお姫様のおっしゃることにも一理あるので、仕方なくこの申出を許し、早速船を造らせることになさいました。さていよいよその新造船も出来ると、その中には色々の食糧品や道具など積み込み、夜中になるのを待って、お姫様は犬と一緒に、どこをあてともなく広い広い海の中に出てしまいました。浜辺では王様御夫婦が近侍の人々と共に、久しい間、船の影が見えなくなってしまうまで、涙に咽びながら、もう永久に逢うことの出来ない、愛しいお姫様の船出を見送っていらっしゃいました。

 お姫様の乗った船は、それから幾十日かの間、広い海の上を漂いておりましたが、そのうちに潮流の加減で、たうとう可成り大きな一つの島に流れ着きました。その時分そこはまだ名も何もなく無人島でしたが、それが今の台湾だったのです。お姫様は犬と一緒にそこへ上陸して、小さな小屋を建てて住むことになさいました。そして穀物を蒔いたり果樹を植えたりして、睦まじく暮していらっしゃるうちに、年は一年二年と過ぎてゆきました。そしてお姫様はその間に二人の男児と一人の女児をお生みになりました。こうして淋しい中にも楽しい生活は過ぎてゆきました。時々は故郷のことを思い出して、悲しくなるようなこともありましたが、三人の子供達が一日一日と成人してゆくのを見ていると、そんなことはすっかり忘れてしまうのでした。そのうちに犬は死んでしまいました。今では子供達もすっかり成人して、立派な息子と娘になりました。ところがある日のこと、一人の息子がお母さんに向って、

 『ねえ、おつ母さん。私達のお父さんはどうなすったんです?』と不意にこんなことを訊ね始めました。

 『お父さんかい。お父さんはね、お前達がまだ小さい時分、亡くなっておしまいになったんだよ』

 『そう。じゃ、お父さんの名は何と云って、どんな方だったの』もう一人の息子がこう訊ねました。これには流石のおつ母さんも困っておしまいになりました。そして、自分が病気になった時からのことを、泣く泣く話してお聞かせになりました。

 これを聞いた二人の兄弟は、驚き悲しみました。

 『ああ、私達は姿こそ人間だが、お父さんは犬なんて、そんな恥かしいことがあるものか。もうここにこうしてはいられない』とこんなことを云いだして、おつ母さんが止めるのも聞かず、たうとう家を飛び出してしまいました。そして足に任せて北へ北へと進みましたが、今の台中の辺りまで来た時、二人はそこに足をとめて住むことになりました。で、二人の兄弟は川や海へ行って魚を捕ったり、山へ行って狩をしたり、木の実を採ってそれを食べたりしながら、仲睦まじく生活をつづけていました。

 さて、一方二人の兄弟にとり残されたおつ母さんの方は、どうなったでしょう。たった一人の娘を相手に淋しく暮していらっしゃいましたが、兄弟のことを思い出しては、

 『今頃はどうしているだろう、病気にでもなって苦しんでおりわすまいか、それとも悪い獣にでも食べられてしまったのではあるまいか』と、気にかからぬ時とては一刻もありませんでした。で、ある日のこと娘に向って、こうおっしゃいました。

 『ねえ、兄さん達はどうしていることだろうね。私もだんだん年は寄って来るし、もし今どうこうということがあったら、定めしお前が困ることだろう。どうだい、一奮発して、兄さん達の行方を捜しに出かけようじゃないか』これを聞いた娘は大層喜びました。そしてすぐに出かけようと言うことに話が決まりました。けれどこのままの姿で行ってはどうせ怒って出て行った兄さん達、きっと逢ってはくれないだろう。何とか姿を変えて行かなければなるまいと云うので、色々に思案した末、或木の葉の汁で、二人とも口の辺りに丁度鳥の嘴のような入墨をして出かけることにしました。旅の用意をすっかり備え、二人はいよいよ出発しました。そして山を越え谷を渡って北へ北へと進んでいましたが、何しろおつ母さんは年が年ですし、そこへ艱難辛苦の旅が続いたものですから、たうとう重い病気に罹って、動けなくなってしまいました。そして娘の手厚い介抱の効もなく、たうとう死んでしまいました。

 娘の悲しみは言うまでもありません。これから先どうしたものかと暫く途方に暮れておりましたが、といって、他に相談する人とては誰もないので、泣く泣く穴を掘っておつ母さんの遺骸をそこに葬り、懇にその霊を吊いました。娘にはそれからまた長い一人旅が続きました。どこと言って探すあてはないのですから、広い台湾の島中を足に任せてあちらこちらと歩き廻っては、夜になると、木の下や岩の陰などに寝るのでした。こうした悲しい旅行がそれから幾日か続いたある日のこと、娘は一つの深い山の中に分け入っていましたが、自分とはさして遠くも離れていない処で、一生懸命働いている二人の男の姿がふと目に入りました。もとより無人島のこと、ほかに人気のあらう筈はありません。日頃から訪ね捜しているお兄さん達に相違ないと、娘は心を躍らせながら、その方へ近づいて行きました。そして、

 『あなた達は私の兄さんではありませんか』と声をかけました。二人の男は知らぬ女から、兄さんではありませんかと声をかけられて吃驚しながら、

 『そういうお前さんは誰なんだい』と訊ね返しました。そこで、娘は今までの詳しい話しをして、お母さんから貰った遣みの品を出して見せました。

 『なる程、私達には一人の妹があった。それじゃお前がその妹だったのか』三人はこう言って互いに手を取りあって、暫くの間は言葉もなく泣いておりました。そして、これからは三人で仲良く暮そうと、連れだって帰りました。ところがここに困ったことが起りました。というのはほかでもありません。何しろ人間といっては三人よりほかにいないのですから、兄さん達は二人とも自分の妹をお嫁にしようと思って、喧嘩をはじめてしまったのです。大きい兄さんの方が、

 『おれは兄なのだからおれが取るのがあたりまえだ』と言えば、小さい方も敗けてはおらず、

 『いや、それは違う。妹ははじめて会った時私に先に声をかけたのだからわしのものだ』と言って争うのです。妹もこれには困ってしまいました。と言って、どうすることも出来ません。そのうちに二人は、ある日のことたうとう大喧嘩を始めて、その揚句弟は兄さんの前歯を打ち折ってしまいました。さあ、こうなるともう喧嘩どころではありません。弟は妹と一緒に、一生懸命兄さんの介抱に努めました。弟はその日以来今までとはうって変って、余り口数もきかない淋しい人間になってしまいました。一時の怒りからたった一人の兄さんに大怪我をさせた自分の罪が、考えれば考えるほど恐しくてたまらなかったのです。こうしてまた幾日か過ぎました。ところがある日のこと、この弟の姿が不意に見えなくなってしまいました。兄と妹は心配してあちらこちらと捜しまわって、一本の樟樹の下で自殺している弟の骸を見つけだしました。やがてこの兄と妹は夫婦になって、楽しく睦まじい家庭をつくりました。これが今、台湾の或地方に住んでいる生蕃人の祖先だということです。ですから今でも生蕃人が結婚する時には、男は前歯を一本抜き取り、女は口の辺に烏の嘴のような格好の入墨をする風習が伝わっているのだそうです。